写真について

 150年にわたる写真の歴史を振り返ってみると、時代が写真に対して役割を与え、 同時にその責任を求めてきた歴史だったと思います。
 写真が発明された当初、写真技術の未熟さもあって静止した被写体が写真の中心となりました。 風景、静物、そして、当時もっとも求められていた肖像画に代わる肖像写真が、写真の使命の様に 考えられていました。
 写真が発明される以前から権力者は、自分の肖像や肖像画を自身の生きた証として、 あるいはそうした権力者に仕える者たちが、彼の偉大な業績を後世に伝えようとして残してきて います。古代エジプトの諸王の肖像や、古代ギリシャやローマの有名な彫像がその事実を証明し ています。
 写真が発明されてからも特権階級の人々は、腕利きの画家が何日もモデルを拘束して描きあげる 高価な肖像画を好んで描かせていましたが、自分の肖像画など残せるなどと思ってもいなっかった 一般市民に、短時間ででき、しかも安価な写真が支持されていきます。 当時街角には、にわかスタジオが乱立し、 それらのスタジオに個人や家族の写真を撮ってもらうために長蛇の人の列ができました。それを示 す19世紀の銅板画が残されています。当時、市場の片隅にも仮設のスタジオが設置され、買い物に 来た市民が、白い布で覆われたスタジオで記念写真を撮るためにカメラの前で5分や10分も動かず にポーズをとっていました。そんなに時間がかかったのは写真感光剤(フィルム)の感度が非常に低か ったからです。

 時代が進んで20世紀初頭、米国・コダック社がそれまでガラスや紙を感光剤の支持体としていた 今日言うところのフィルムを、当時発明されたばかりのセルロイドを使うことによって、野外で フィルム交換ができるようになり、さらに感光剤の感度が良くなってきたことによって、手持ちカメラ の開発が進みました。
 こうした写真技術の進歩が写真の使命を大きく変えました。それは、これまで三脚に取り付けてしか 撮ることができなかったカメラが、自由に持ち運べるようになったからです。
 写真が発明されるまでは新聞や雑誌、本の挿絵は銅版画やリトグラフが中心でしたが、写真の描写力 や簡便性が優れていたため写真が印刷物にどんどん採用されていきました。一方、銅版画やリトグラフ はマスコミ媒体から締め出される結果となりました。

 さて、写真は第二次世界大戦を境にして、フォトジャーナリズムという新しい分野を確立しました 。写真が絵画を追随していたピクトリアリズムの時代から、自らの生きる道を獲得した時代だった ように思います。この時代、写真界の先輩たちは社会的な矛盾にレンズを向けて、世の人々に問題 提起をしました。写真がもっている訴求力に多くの人々が関心を持ちました。そうして写真作家がた くさん誕生しました。私もそうした時代に写真界に飛び込みました。
 今日、フォトジャーナリズムの道が完全に閉ざされているというわけではありませんが、時代は 写真からテレビなどの映像に徐々に移行しています。送り手の意識の変化というより,受け手の関心が 静止画像から音声付の動画へと移行していった結果だと思われます。1946年に発刊された米国の写真 週刊誌ライフは1980年には早くも休刊に追い込まれています。それにはテレビ映像の影響が否定できま せん。
 国土の広い米国では印刷媒体より電波媒体が支持されやすかったという事情も後押して、印刷 媒体の写真は過去の物という刻印を押される結果となりました。かつて写真が新聞や雑誌などの印刷 媒体から銅版画やリトグラフを追放したように、今度は写真が情報社会の主流から締め出しを食らう 結果となっています。
 今日の写真は以前のような勢いがないように見えます。写真は完全に過去のものになったということ でしょうか。この疑問に対して私は、過去に銅版画やリトグラフがたどったように、写真も印刷技術の しがらみから開放されて、自由な芸術表現手段として認知されてきていると考えています。

 さて、日本で写真と呼ばれているフォトグラフィーは、欧米に限らず世界の国々と比較すると、きわ めて特異な命名であると言わざるを得ません。フォトグラフィーとは 光量子を意味するフォトン図像を意味するグラフの合成語です。どこにも 「真を写す」という意味が含まれていません。この日本の写真という命名が日本のフォトグラフィー と海外のそれとの微妙なずれを生んでいます。そうした事情が、現代の海外の写真作家と日本の写真 作家の作風の違いにでてきています。海外の作家の方が写真というジャンルにこだわらず、より広い 領域を持っているように思います。
 日本には前述のようにフォトグラフィーを写真と命名したせいか、いまだにカメラが捕らえた映像 に手を加えることは、写真の本質に反すると訴えている人 たちがいます。それは写真のリアリティを損ねるという理由によるもののようです。しかし、いくら 高度な技術で精巧なカメラを、レンズを、フィルムを製造したとしても、そこには技術者の意図が入 り込まないということはありえません。各メーカーがしのぎを削って新製品を開発しても、同じ スペックや同じ精度の物にならないのは技術者の個性がそこに反映されているからです。つまり、 写真技術は「真を写す」に近づくための努力をしていますが、あくまでも近似値の技術で、曖昧さが いつでも付きまとっているということです。カメラ、フィルムから得られる映像はあくまでも 「らしさ」の領域から抜け出ることができません。そのことを端的に表しているのは、人間の目が 二個の眼球で結像するのに対して、カメラは一個の目(レンズ)で結像しているという事実です。
 1993年、当時パリ国立図書館(フランス)の写真部門の主任学芸員だったジャン・クロード・ ルマーニー氏にお会いして、私が「日本ではフォトグラフィーのことを”真を写す”という意味 なんですよ」と話したら、彼は驚き、「それではあなたのは”偽を写す”ですね」と笑って応え られたことを思い出します。

 カメラがなければ映像は得られません。けれどもそこで写真が完了したと考えるのはあまりにも 写真の楽しみ方を台無しにしてはいないでしょうか。写真技術というのは写すことだけに止まりま せん。前述したようにフォトグラフィーとは フォトンの描く図像です。すべての写真技術を使って叙事詩を 書くか抒情詩を書くかは、カメラを手にした者自身が決めることだと思います。私は光の特性を利用 した写真の楽しみ方をこれからも追求していきたいと思っています。 IS PHOTO GALLERYで紹介した作品は,印画紙 を皺にしてプリントした作品(paris),同じく印画紙を皺にして発色調色を施した作品(ile de france,flowers),紙ネガを使って印画紙にプリントした作品(still life)です。これらの作品のうち、 印画紙を皺にした作品は、写真が印画紙やフィルムの平面性をもっとも重視している技術だという ことを意識した作品です。つまり、地球に照射する太陽光の密度が赤道と極地域で 異なるように、でこぼこの印画紙上でも同じような現象が起き、さらに、平面性がないために 画像がデホルメされてしまうことを利用しています。作品が写真でなくまさに絵画的であるために ピクトリアリズムのように見られますが、このような光についてのコンセプトを含んでいます。
 今後、写真のデジタル化は急速に進展するに違いありません。 そうした動向を全く拒否するのでなく、それらも視野に入れて、 機械任せでない手作りの写真を楽しんでいこうと思っています。

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